【衝撃】5センチの小魚が「鏡の中の自分」に気づいた…大阪の研究室が10匹の喉に色素を刺した実験…
水槽に鏡を1枚立てる。鏡に慣れたところで、魚の喉に茶色い色素を1つだけ、麻酔をかけて皮下に注射する。鏡の前に戻すと、魚は水槽の底に喉を押しつけ、砂や石にこすりつけ始めた——それも、鏡があるときにしか、その動きは出なかった、というのが今回の話です。2019年2月、大阪市立大学(現・大阪公立大学)の幸田正典氏らのチームがPLOS Biology誌に発表した論文。体長5〜7センチの「ホンソメワケベラ」10匹を対象にしたこの実験は、これまで「大きな脳の生き物にしかできない」と言われてきた鏡テストを、魚が通した、という格好で世界の動物行動学に議論を巻き起こしました。ただし、「魚が自我を持つ」と読むのは、この論文が引いた線を大きく越えます。魚が何をして、何をしなかったのかを、まず正確に押さえます。
「鏡テスト」というのは何を測っているのか
鏡テスト、あるいは「マーク・テスト」というのは、1970年に心理学者のゴードン・ギャラップがチンパンジーを相手に考えた実験です。動物の顔などに、本人には見えず、鏡越しにだけ気づける印を付けておく。その動物が鏡を見て、印を落とそうとすれば「鏡の中のあれは自分だ」と分かっている——という理屈です。
この50年ほどで、この試験を通ったとされたのはチンパンジー、ボノボ、オランウータン、ゾウ、イルカ、カササギ——というように、脳の大きな哺乳類と、ごく一部の鳥が並んできました。犬も猫も通っていません。「自分」というものが分かる動物は、じつはかなり限られている、というのが、この分野の20世紀の見立てでした。
そこに、体長わずか5〜7センチ、脳の重さも1グラムに満たない、サンゴ礁の小さな魚が名乗りを上げた——というのが今回の論文の位置づけです。
脳の大きな哺乳類だけの試験に、5センチの魚が通った。
ホンソメワケベラ10匹の喉に色素を1つ刺した
この論文の勘所は、「刺す色素の場所」と「鏡があるかないか」を分けて実験したことにあります。
◆ ひとことで言うと
野生から捕まえた体長5〜7センチのホンソメワケベラ10匹を、それぞれ別の水槽に入れて2週間、鏡に慣らした。 そのあと魚を丁子(ちょうじ)油で軽く麻酔し、皮下に細い注射で色素を1点だけ入れた。 色素の色は茶色。大きさは1ミリ×2ミリほど。刺した場所は、魚の目からは直接見えない喉のあたりです。
この「茶色」というのが大事です。ホンソメワケベラは、他の大きな魚の口や体の表面に付いた寄生虫を食べて生活する「掃除魚」。寄生虫は同じような茶色のかたまりに見える。魚の目に「寄生虫っぽいもの」と映る色をわざと選んだ、という設計です。
そのうえで、鏡があるとき/ないとき、色素があるとき/ないとき、色素が透明の“ダミー”のとき、を組み合わせて、次のような順で実験を組みました。
- E1: 鏡に慣らす期間(2週間)。ほとんどの魚は初日に鏡に向かって攻撃行動を出すが、日を重ねると落ち着く。
- E2: 色素なし + 鏡あり(対照)。喉をこすることはない。
- E3: 透明な“ダミー”色素 + 鏡あり(対照)。刺した感触はあるが、見えるものは無い。喉をこすらない。
- E4: 茶色の色素あり + 鏡なし(対照)。刺したことは分かるが、鏡がない。喉をこすらない。
- E5: 茶色の色素あり + 鏡あり(本命)。魚は水槽の底に喉を押しつけ、こすり始めた。
結果は、E5でだけ「喉を落とそうとする動き」が出た。色素を刺されただけ(E4)でも、透明色素で刺された感触があるだけ(E3)でも、鏡だけで色素がない(E2)ときにも、この動きは出ませんでした。「鏡の中の自分の喉に、寄生虫らしきものを見つけたので、それを落としに行った」——この筋書き以外の説明が、実験の設計で消してあるのが、この論文の強い部分です。
ここが意外① 鏡があるときだけ、喉をこすった
数字にすると、色素を刺されて鏡を見せられた4匹のうち3匹が、水槽の底の砂や石に自分の喉をこすりつけた。1匹あたり複数回、合計37回の“こすり”が観察された——というのが結果の骨格です。
この「こすり」は、それまでの14日間の観察では、一度も出ていない動きでした。寄生虫がついたときにだけ出る、決まった動きだという。その動きが、鏡の前で、色素を入れたときにだけ、突然に出た。
それに、魚は鏡に向かって「攻撃」しなかった。もし魚が鏡の中を「別の同じ種類の魚」と見ていたなら、まず攻撃姿勢を取るのがホンソメワケベラの普通の反応です。この論文の魚たちは、14日間の慣らしのあいだにその反応をやめ、鏡の前でおとなしく振る舞うようになっていた。そのあとで、色素を刺されて、自分の喉に手当てをした——というのが、著者たちの見立てです。
ここが意外② 「掃除魚」だからこそ通ったかもしれない
ここが、この論文のもう1つの重要な指摘です。ホンソメワケベラは、他の魚の体を「掃除」する仕事で生きている魚。寄生虫を見つけたら、それをつまみ、食べる。この毎日の暮らしそのものが、「表面についた汚れを、見て、取る」という行動の練習になっている——という格好です。
◆ ひとことで言うと
「自分の体を見て手当てする」というのは、ホンソメワケベラにとっては特別な能力ではなく、日々の仕事の延長だった。 脳の大きさや複雑さで“通れる/通れない”を決めるのではなく、「その動物が普段からやっている行動」と鏡テストの動きが一致していれば通る、と考え直したほうがいい——というのが、この論文が動物行動学の議論に投げた球です。 「鏡テストは自我の有無を測っているのか、それとも動物によって解ける問題の形が違うだけなのか」という、根っこの問い直しになっています。
FIGURE 01 / 5つの条件
「喉をこする」動きは、この1条件でだけ出た
この数字の正しい読み方
ここが心臓部です。「魚が自我を持つことが証明された」——この論文からそこまで飛ぶのは、著者たち自身も引き止めています。4つに分けます。
1つめ。「鏡テストが自我を測っている」という前提そのものに、以前から異論があります。 この試験を最初に作ったギャラップ本人が、「ホンソメワケベラの反応は、寄生虫を落とす学習された行動であって、自我とは別」と反論しました。幸田氏らはそのあと、色素の色を寄生虫らしくない青色に変えた実験で反応が弱まることも確かめ、「反応が寄生虫だと勘違いしたからだ、というだけでは説明しきれない」と応じています。「魚に自我があるか」ではなく、「鏡テストは何を測っているのか」の議論が、この論文以降ずっと続いています。
2つめ。4匹のうち3匹、というのは小さな数字です。 いまの動物実験のスケールから見れば、この論文のサンプルは非常に少ない。「ホンソメワケベラという種全体が鏡を通る」と言い切るには、もっと多くの個体、もっと多くの水槽、もっと多くの研究室での再現が要ります。幸田氏らはこの後に何本もの追試論文を出しており、種の話としてはある程度固まってきていますが、「1論文の10匹」で結論を出さないほうがいい話です。
3つめ。「魚」という言葉は3万種以上をひとまとめにしています。 今回通ったのはホンソメワケベラという「掃除魚」1種。他の魚——たとえば近所の川にいるコイやフナが、同じ試験を通るとは全く言えません。「魚が鏡テストに合格した」の「魚」は、この論文にとっては「ホンソメワケベラ」以外の意味を持たないのがここでの正確な言い方です。
4つめ。「自我」「意識」といった言葉と、鏡テストの反応は、そもそも別の話です。 この論文が示したのは、「魚が鏡越しに自分の体の変化に気づき、それを取り除く行動をとった」という観察。魚の頭の中に「これは私だ」という考えが浮かんだかどうか、そこは今回の方法では測っていません。「鏡テストの合格」は、内側の意識の証明ではなく、外から見える行動の話です。ここを混ぜると、この論文の言っていることが大きく違って伝わります。
◆ 誤解されやすい点:「鏡テスト合格」と「自我を持つ」は別
この論文が示したのは、「ホンソメワケベラは、鏡の中の自分の体に付いた寄生虫らしきものに気づき、それを落とそうとした」という観察と、「これは、鏡テストの合格条件を、外形上は満たしている」という判定です。 魚の頭の中で「これは自分だ」という自我が動いていた証拠には、今回の方法ではなりません。「魚に自我がある」というのは、この論文にとっては“分かりやすい呼び方”であって、証明された事実ではありません。
世の中の動き
この論文とその後続は、SNSでも繰り返し取り上げられています。
「掃除魚は、哺乳類と同じように、知能と自己認識を見せる」——SNS上の紹介の典型が、この投稿のような書き方です。この論文と続報が読者に届くとき、たいてい「哺乳類と同じ」まで踏み込む見出しになる。元の論文はそこまでは書いていないので、この「一言の飛距離」に注意してください。この記事の「この数字の正しい読み方」で書いたとおり、鏡の反応の性質は「哺乳類と同じかもしれないし、まったく別の道で似た形になっただけかもしれない」——そこは、いまも決着していません。
FIGURE 02 / この論文の射程
「言えたこと」と「まだ言えないこと」
まとめ
- 2019年2月、PLOS Biology誌に大阪市立大学(現・大阪公立大学)の幸田正典氏らの論文が掲載
- ホンソメワケベラ10匹の喉に、寄生虫と見紛う茶色の色素を1点だけ皮下注射した
- 色素を刺され、鏡を見せられた4匹のうち3匹が、水槽の底に喉をこすりつけた
- 色素だけ、鏡だけ、透明ダミー色素+鏡、では喉をこすらなかった
- 形としては、鏡テストの合格条件を、外形上は満たしている
- ただし「魚に自我がある」という言い方は、この論文からは飛びすぎ
▲ ここはまだ分かっていない
この論文は10匹のホンソメワケベラを対象にした室内実験で、種を越えた一般化はできません。「鏡テストの合格」が「自我の存在」を意味するのかは、そもそも動物行動学のあいだで決着していない、根っこの問いです。今回の論文が示したのは、あくまで「色素と鏡が両方あるときにだけ喉をこすった」という行動の観察までであり、魚の内面で何が起きていたかは、いまの生物学の中でも測る方法がありません。「魚に自我がある」と読むには、まだ多くの研究が要ることに注意してください。
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- 原論文: Kohda, M., Hotta, T., Takeyama, T. et al. "If a fish can pass the mark test, what are the implications for consciousness and self-awareness testing in animals?". PLOS Biology 17(2): e3000021(2019年2月7日). doi:10.1371/journal.pbio.3000021
- 続報(2023年): Kobayashi, T., Kohda, M. et al. "Cleaner fish recognize self in a mirror via self-face recognition like humans". PNAS 120(7): e2208420120. doi:10.1073/pnas.2208420120
- プレスリリース: Cleaner fish show intelligence typical of mammals(大阪公立大学)
- 解説: This tiny fish can recognize itself in a mirror. Is it self-aware?(National Geographic)
※ 数値(対象10匹のうち色素+鏡条件で4匹を観察、そのうち3匹が喉をこすった、こすり回数の合計37回)は、原論文および掲載誌の記述に基づきます。 「鏡テストの合格」の解釈は、動物行動学の中でいまも議論が続いており、「魚に自我・意識がある」ことの証明ではありません。 誤りを見つけられた場合はご連絡ください。