5年ひとりぼっちのイルカが、1万833回しゃべっていた
デンマークの狭い海峡に、ハンドウイルカが1頭だけで居ついた。群れはいない。相手もいない。それでも彼は鳴き続けていました。海中マイクを3か月沈めた研究チームが数えた発声は、1万833回。しかも彼は、イルカの「名前」にあたる鳴き方を3種類も使い分けていました。
スコットランドから来た1頭が、帰らなくなった
2019年9月、デンマーク・フュン島の南にあるスヴェンボー海峡に、1頭のハンドウイルカが現れました。地元の人たちは彼を「デレ(Delle)」と呼ぶようになります。
ハンドウイルカは本来、数頭から数十頭の群れで暮らす動物です。バルト海の内側にあるこの細い海峡は、彼らの本来の生息域ではありません。迷い込んだ1頭、というだけなら珍しい話ではない——はずでした。
ところがデレは、帰りませんでした。3年半にわたって、同じ海峡に居つき続けたのです。
背びれの傷の形から、彼の身元も割れています。スコットランド・マレー湾の写真台帳に登録された個体番号1022番、通称「ヨーダ」。2007年生まれのオスでした。北海の群れにいたはずの1頭が、群れを離れ、数百キロ離れた海峡で単独生活を送っていたことになります。
3か月、海の底にマイクを置いた
研究チームがやったことは単純です。2022年12月から2023年2月まで、スヴェンボーの港に自動録音機を沈めっぱなしにしました。人が近くにいてもいなくても、機械は録り続けます。
そして数えた発声が、1万833回でした。
しかも、その中身がおかしい。イルカが出せる音のレパートリーが、ほぼ全部そろっていたのです。
◆ イルカが出す音、ざっくり3種類
クリック音……「カチカチ」という短い音。これを出して跳ね返りを聞き、暗い海の中で
物の形や位置を音で見ています(コウモリと同じやり方)。相手がいなくても使う音。
ホイッスル……「ピューイ」という口笛のような音。仲間とのやりとり用。ふつうは相手がいて成り立つ音です。
バーストパルス……ブブブッと詰まった音。けんかや興奮した場面で出るとされています。これも相手ありきの音。
クリック音だけなら、1頭でも不思議はありません。おかしいのは残りです。やりとりのための音が、やりとりする相手がいないのに大量に出ていた。
相手がいないのに、会話用の音がそろっていた。
ここが研究チームを困らせた点です。ホイッスルやバーストパルスは、本来「誰かに向けて出す音」だと考えられてきました。論文の筆頭著者オルガ・フィラトワ氏は、こう述べています——もしデレが1頭だと知らずにこの録音を聞いたら、少なくとも3頭のイルカが社会的なやりとりをしていると結論づけただろう、と。
ここが意外① 「名前」を3つ持っていた
ここでイルカのすごい話をひとつ。彼らは、一頭ずつ「名前」を持っています。
シグネチャーホイッスルと呼ばれる、その個体だけの決まったメロディです。子どものうちに自分で作って、一生使い続ける。はぐれたときに鳴らせば、仲間が「あいつだ」と気づく。名前というより、自分専用の着信音と言ったほうが近いかもしれません。
そして1頭につき1つ、というのが常識でした。名前が2つも3つもあったら、名前の意味がなくなりますから。
ところがデレは、はっきり違うメロディを3種類使っていました。
これをどう読むかは、まだ決着していません。3つとも彼自身のものなのか。それとも——かつて一緒にいた仲間の「名前」を呼んでいるのか。研究チームは、どちらとも断定していません。
FIGURE 01 / 経過
デレがスヴェンボーにいた時間
ここが意外② 人がいないときにも鳴いていた
もっとも自然な反論は「人間に話しかけているのでは」でしょう。スヴェンボーは港町で、デレは観光客に人気の存在でもありました。
ところがこの説明は、データと合いません。録音機は、周囲に人がいない時間帯にも同じように発声を拾っていました。誰も見ていない海の中で、彼は鳴き続けていたことになります。
研究チームが論文で挙げている可能性は、大きく分けて3つです。ひとつ、感情が漏れ出した結果として意図せず出ている音。ふたつ、コミュニケーション以外の別の機能を持つ音。みっつ、社会的なやりとりを求める本能そのものの副産物。
論文の言い回しは慎重です。「人が1人でいるときに、面白いものを読んで思わず笑ってしまうようなもの」という比喩が使われていますが、これはあくまで説明のためのたとえであって、証明された結論ではありません。
この数字の正しい読み方
ここがこの記事のいちばん大事な部分です。「1万833回」も「3種類」も、事実として録れた数字です。問題は、そこから何が言えるかのほうにあります。
第一に、これは1頭の観察記録です。統計的な比較の相手がいません。単独個体は世界的にも数えるほどしかおらず、比べようがないというのが実情です。「孤独なイルカは独り言を言う」という一般則は、この研究からは出てきません。
第二に、「独り言」という言葉は解釈です。測ったのは音の種類と回数だけで、そこに意図があるかどうかを測る方法は、そもそもありません。論文タイトルにも "self-talk" は入っていますが、本文の記述は一貫して仮説の提示にとどまっています。
第三に、録音は港の中で行われました。船の音や人の活動が音環境に影響していた可能性は残ります。3か月という期間も、3年半の滞在のうちの一部でしかありません。
FIGURE 02 / 比較
「名前」の数がおかしい
世の中の動き
この研究は2024年11月に Bioacoustics 誌に出たものですが、日本語圏では2026年8月に入ってから改めて広く回りました。
なお念のため補足すると、バルト海は地中海ではありません。スヴェンボー海峡はデンマーク・フュン島の南、バルト海の入口にあたる水域です。
◆ その後のデレ
デレは2023年4月8日にスヴェンボーを離れ、約30キロ北のニューボーで確認されました。3年半の滞在に、いちおうの区切りがついたことになります。 その後どこへ向かったか、群れに戻れたかどうかは、公開されている資料からは確認できませんでした。
まとめ
- デンマークの海峡に3年半ひとりで居ついたハンドウイルカを、3か月録音した
- 話す相手がいないのに、発声は1万833回にのぼった
- 「名前」にあたるシグネチャーホイッスルを、通説の1つではなく3種類使っていた
- 人がいない時間帯にも鳴いていたため、人間向けの発声とは考えにくい
- ただし調べられたのは1頭だけ。「独り言」は測定結果ではなく解釈である
▲ ここはまだ分かっていない
この研究は単独個体の観察記録であり、対照群がありません。発声に意図があるかどうかを直接測る方法は存在せず、「孤独が原因だ」という因果関係も確かめられていません。3種類のシグネチャーホイッスルの由来も未解明のままです。動物の心について、この論文以上のことを言うのは行きすぎになります。
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- 原論文: Filatova O. A. et al. Dolphin self-talk: unusual acoustic behaviour of a solitary bottlenose dolphin. Bioacoustics, 2024. doi:10.1080/09524622.2024.2422092
- 報道: Lonely dolphin in Baltic Sea found to be talking to himself(Phys.org)
- 報道: Dolphin in the Baltic Sea has been talking to himself(Live Science)
- 報道: Lonely dolphin in the Baltic Sea appears to be talking to himself(ZME Science。個体識別と移動の経緯)
※ 図解の日付と数値は論文および上記報道の報告値です。「独り言」という表現は研究チームによる解釈であり、測定された事実ではありません。 誤りを見つけられた場合はご連絡ください。訂正履歴を残して修正します。