【衝撃】名前で呼ばれた乳牛は年258リットル多く牛乳を出す…516農場を調べた結果、真犯人は…
「飼っている牛に、ちゃんと名前を付けている?」——英ニューカッスル大学のキャサリン・ダグラス氏(旧姓バーテンショー)とピーター・ローリンソン氏が、英国の乳牛農家に投げかけた質問です。2009年3月、動物と人間の関係を扱う学術誌 Anthrozoös に発表された論文で、英国の乳牛農場516か所を調査したところ、牛を名前で呼んでいる農家では、そうでない農家より年間258リットル、1頭あたり多く牛乳が出ていたことが分かりました。1リットルのパックにして、およそ258本の差です。この研究は2009年のイグ・ノーベル賞獣医学部門を受賞し、「牛に名前をつけると乳がよく出る」という一言でSNSに広まりました。ただし、この一言の受け取り方には、ちょっと落とし穴があります。「名前」が牛乳を増やしているのではなく、名前は「もっと大事な何か」の目印だった——という、いちばん面白いところを書きます。
「牛に名前」で牛乳が増える?——2009年イグ・ノーベル賞の研究
まず、この論文が扱っている「牛」は、日本のスーパーで売られている牛乳を出しているのと同じ、ホルスタインなどの乳牛です。1頭あたり年間、平均で7,000〜9,000リットルほどの牛乳を出します(品種と農場によります)。その中で「258リットル多い」というのは、割合にして3%前後の差——数字だけ見ると小さく感じますが、数百頭を飼っている農場で年間3%増となると、経営としては十分に効いてくる大きさです。
ここで面白いのは、研究チームがそもそもこの差を測ろうとしたきっかけです。ダグラス氏は当時、酪農業界のあいだで「昔からのつきあいで牛を可愛がる農家は、なんとなく乳がよく出る気がする」と語られていたのを、数字にできないかと思って調査を始めたと、後のインタビューで語っています。「牛の福祉」と「経営の数字」を、同じテーブルに乗せて話すための材料にしたかった——という動機です。
◆ ひとことで言うと
「動物にやさしく接することが、経営としても得だと数字で言える」なら、動物福祉の話は説教で終わらず、実務の話になる。 この論文は、その入り口を作るための研究で、扱っているのは牛乳の量そのものというより、「農家と牛の関係の質」がどう見えるか、です。 名前で呼んでいるかどうかは、その関係の質を測るための、いちばん簡単な物差しとして使われました。
扱っているのは牛乳の量ではなく、農家と牛の関係の質。名前はその物差し。
どう調べたか——516農場の飼育担当者へのアンケート
実験ではありません。この論文は、英国内の乳牛農場の飼育担当者を対象にした、大規模なアンケート調査です。
- 質問票を送った先: 英国内の乳牛農場の飼育担当者(stock manager)。1軒あたり1人が回答する形。
- 回答が返ってきた数: 516農場。この規模は、この分野のアンケートとしてはかなり大きめです。
- 聞いたこと: ①牛を個体として扱っているか(名前を付けているか、性格を把握しているか)、②牛と接するときの態度、③どんな搾乳の設備を使っているか、そして、④その農場の1頭あたりの年間牛乳量。
- 解析: 「名前を付けている/いない」の2つのグループで牛乳量を比べ、農場の規模・品種・搾乳の設備など、他に影響しそうな要因を統計的に打ち消した。
その結果、名前で呼んでいる農場では、そうでない農場より、1頭あたり年間258リットル多い牛乳が出ていたことが確かめられました。これは、農場の規模や品種、搾乳の設備の違いだけでは説明しきれない差だ、と論文は書いています。
◆ ひとことで言うと
この研究は「実験」ではなく「観察」です。 研究者が「Aの農場は名前で呼ぶ、Bの農場は呼ばない」と割り振ったのではなく、もともとそうしていた農場を後から比べただけ——これがこの論文の設計の弱点で、そのまま「名前を付けたら牛乳が増える」とは言えない理由になります(理由は次の節)。 ただし、516農場という規模の観察は、「関係の質と生産の質にはつながりがあるかもしれない」という強めの手がかりにはなりました。
ここが意外① 名前だけではない、「個体として扱う」の中身
論文をよく読むと、「名前を付けている農家」は、他の点でも普通の農家と違っていました。
- アンケートに答えた飼育担当者の46%が、牛を名前で呼ぶと答えた。
- 回答者の66%は、「牛の全頭を、名前でなくても個体として見分けている」と答えた。
- 48%が、「人間が優しく接することで、牛の搾乳時の様子(気質)が良くなる」に賛成。
- 名前で呼んでいる農家は、搾乳のときに大きな声を出すことが少ない、こまめに牛のそばに寄る、獣医が入るときに慣らしを取る——などの傾向があった。
つまり、「名前を付けている」というのは、それ単体で起きている現象ではなく、「牛を1頭ずつ個体として扱う」という農家の姿勢の、いちばん見えやすい表れだったということです。関連する行動は、静かに扱う、こまめに触れる、状態を毎日見て回る、獣医に対して慣らしをする——など、全部つながっていました。
これがこの論文の最初の意外なところで、「名前」が原因ではなく、「名前」は「もっと大事な扱い方の束」を測るための入口の質問だったのです。
ここが意外② 牛は褒められると乳が増える、が科学的に確かめられていた
もう1つの発見は、牛は静かで慣れた環境のほうが、はっきりストレスが下がり、それが直接、乳の出やすさにつながる——という、この論文以前から積み上げられていた知見と、今回の調査結果が合っていたことです。
乳牛は、搾乳のときにオキシトシンというホルモンが出て、初めて乳腺から乳が「押し出される」仕組みになっています。オキシトシンは、緊張しているとほとんど出ません。大きな声、慣れない匂い、乱暴な扱いがあると、そのぶん乳が「引っ込む」ような状態になる——これは動物福祉学の教科書に載っている話です。
だから、「名前で呼ぶような、静かな扱いをしている農場では、牛の緊張が下がって乳がよく出る」という順序で読むと、この論文の結果はまったく不思議ではありません。この論文の意味は、「新しい発見をした」ことではなく、「昔から酪農家のあいだで言われていた話を、516農場の実データで確かめてみせた」ことにあります。
◆ ひとことで言うと
牛は、緊張していると乳が出にくくなります。 これは動物福祉学の基本の話で、今回の論文は、その基本を英国の実際の農場で確かめて、「関係の質を測る簡単な物差しとして『名前』が使える」ことを示しました。 「名前を呼べば増える」の主体は、あくまで牛の緊張と農家の姿勢で、名前という文字列に魔法があるわけではありません。
FIGURE 01 / 実は名前が原因ではない
「名前」の後ろに隠れている、本当の原因
この数字の正しい読み方
ここが心臓部です。「名前で呼ぶと年258リットル多い」——ここまでは正しい。ただし、この一言をそのまま実践しても、たいてい牛乳は増えません。4つに分けます。
1つめ。分母は「英国の乳牛農場516か所」。牛1頭ではなく、農場を単位にした調査です。 「AとBの2頭の牛のうち、名前を付けたら片方の乳が増えた」という話ではなく、「名前を付けている農場と、付けていない農場では、後者のほうが1頭平均で258リットル少なかった」という話。したがって、この数字を1頭に当てはめて「うちの牛に名前を付ければ258リットル増える」と読むのはずれています。
2つめ。これは観察であって、実験ではありません。相関か因果かの区別が命です。 「牛に名前を付ける習慣がある農家」は、たまたま他の点でも牛にやさしく接する傾向があった、というだけの可能性が残ります。「名前が原因で乳が増えた」のか、「もともとやさしい農家がたまたま名前も付けていた」のかを、この調査では最終的に区別できません。ここは著者自身も論文の中ではっきり書いている限界です。
3つめ。「名前」は関係の質の目印であって、単独の魔法ではありません。 「よし、うちの牛にも今日から名前を付けよう」だけ実行しても、扱い方が変わらなければ乳量はほぼ動かないと考えたほうが自然です。効いているのは、名前という文字列ではなく、その裏にある「静かに接する」「こまめに触れる」「1頭ずつ観察する」などの日々の姿勢の束——これはFIGURE 01の通りです。
4つめ。「多くて258リットル」の意味も見ておきます。 英国の乳牛の平均年間産乳量は約7,000〜9,000リットルなので、258リットルは全体の3%前後です。「大幅に増える」というより、「小さいが、農場経営の中では見過ごせない差」という位置。SNSでは「牛に名前をつけると乳が爆増!」のようにも書かれますが、そこまでの派手さではありません。
◆ 誤解されやすい点:「名前」と「関係の質」を分けて読む
この論文が示したのは、「英国の乳牛農場516か所を調べたところ、牛を名前で呼ぶ農場のほうが、そうでない農場より1頭平均で年258リットル(約3%)多く乳が出ていた」という観察の結果です。 「名前を付けたら乳が増える」と因果を反転して読むのは、この論文の設計からは出ません。名前は、農家の「牛を個体として扱う姿勢」を測るための入口の質問で、実際に乳量を動かしているのは、その裏にある扱い方の束のほう。この論文の価値は、動物福祉と経営の話を同じテーブルに乗せる材料を提供したところにあります。
世の中の動き
「牛は思っているより賢く、社会的な生き物だ」という話は、SNSでも定期的に紹介されるようになりました。今回の論文の背景を作っている大きな流れです。
音楽業界の著名なアカウント、エリック・アルパー氏の投稿です。「牛には生まれた場所によって鳴き方の訛りがある。そして親友がいて、離れ離れになるとうつっぽくなる」——この話は英ノッティンガム大学の研究(2011年、Krause & Bourjade らの一連の研究)などに基づいていて、名前で呼ばれる牛の話と同じ大きな流れの中にあります。牛は1頭ずつ社交の癖と好き嫌いがあり、群れの中で「気の合う相手」を作る——今回のダグラス氏らの論文がSNSでたびたび引用されるのは、この「牛の個体性」という別の系統の研究と、話がぴったり合うからです。ただし、この投稿の話は今回の論文の話ではないので、「牛に名前をつけると乳が増える」の根拠にそのまま使わないこと。
FIGURE 02 / この論文の射程
「言えたこと」と「言ってはいけないこと」
まとめ
- 2009年3月、Anthrozoös 誌にダグラス氏とローリンソン氏(ニューカッスル大)の論文が掲載
- 英国の乳牛農場516か所へのアンケートで、飼育担当者に聞いた
- 牛を名前で呼ぶ農場は、そうでない農場より1頭あたり年258L(約3%)多く搾乳
- 名前は「個体として扱う」姿勢の目印で、単独の魔法ではない
- 2009年のイグ・ノーベル賞獣医学部門を受賞
- 「名前をつけたら乳が増える」と因果を反転して読むと、論文の設計を越える
▲ ここはまだ分かっていない
今回の調査は英国内の乳牛農場が対象で、日本の農場や他の国、他の家畜(乳山羊・鶏など)には自動的に当てはまりません。また、これは実験ではなくアンケートによる観察なので、「名前を付ける」と「乳量が多い」の間に本当の因果関係があるのか、それとも両方を引き起こしている「農家のやさしさ」のような共通要因があるだけなのかを、この研究だけでは区別できません。「名前を付けると牛が自分の名前を覚える」といった話は、この論文の範囲ではありません(別の行動学の研究テーマです)。実務としては、名前を付けるかどうかより、「1頭ずつ観察して、静かに接する」こと自体が乳の出やすさに効くと考えるほうが、この研究の合流点に近い読み方です。
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- 原論文: Bertenshaw, C., & Rowlinson, P. "Exploring Stock Managers' Perceptions of the Human-Animal Relationship on Dairy Farms and an Association with Milk Production". Anthrozoös 22(1): 59–69(2009年3月). doi:10.2752/175303708X390473
- 受賞情報: 2009年 イグ・ノーベル賞獣医学部門(Improbable Research)
- 大学プレスリリース: Personal Touch In Farming: Giving A Cow A Name Boosts Her Milk Production(ScienceDaily 経由でニューカッスル大学の発表)
- 関連する後続研究: Douglas & Rowlinson(2012)"Positive human-animal interaction and dairy heifer welfare"——若い牛への声かけと接触が搾乳時の落ち着きに与える影響を扱った続報
※ 数値(516農場、258リットルの年間差、名前を付けている農家の割合46%など)は、原論文 Anthrozoös 22巻1号 59–69頁および共著者へのインタビューに基づく丸めの値です。 「名前で呼ぶことそのものが乳量を増やす」といった因果関係は、この観察調査だけからは結論できず、実際に効いているのは「牛を個体として扱う」姿勢の束であると考えられます。誤りを見つけられた場合はご連絡ください。