戦没者追悼式の「反省」はなぜ32年、復活と消滅を繰り返すのか

戦没者追悼式「反省」復活と消滅、32年の攻防
✒ コラム / 図版:タネアカシ編集部

「戦争の惨禍を、二度と繰り返させない」。2026年8月15日、高市早苗首相は戦没者追悼式でこう述べました。歴代首相が使ってきた「繰り返さない」から「繰り返させない」への、たった一文字の変更です。しかも「反省」という言葉は、また式辞から消えました。この一語をめぐる攻防は、今年に始まったことではありません。政権が変わるたびに32年間繰り返されてきた、日本政治の奇妙な儀式です。

今年、式辞で何が変わったのか

2026年8月15日、東京都千代田区の日本武道館で81回目の全国戦没者追悼式が行われました。首相就任後初めてこの式典に臨んだ高市早苗首相は、式辞で「反省」という言葉に触れませんでした。毎日新聞や時事通信の報道によれば、これは前任の石破茂首相が2025年に13年ぶりに復活させた言葉を、1年で再び封印した形です。

さらに、朝日新聞や時事通信が指摘しているのは、もう一つの変更点です。安倍晋三首相以降の歴代首相が式辞で使ってきた「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」という表現を、高市首相は「戦争の惨禍を二度と繰り返させない」に改めました。「繰り返さない」から「繰り返させない」へ。ひらがな2文字が増えただけの、ごく小さな変更です。

先にお断りします。 本稿は、この文言変更の是非を断定するものではありません。歴史認識をめぐる評価は立場によって大きく分かれます。ここで扱うのは、「なぜこの手の言葉の変更が、毎年これほど大きなニュースになるのか」という、今年より前からずっと存在してきた問いです。

📌 出典: 時事通信毎日新聞朝日新聞日本経済新聞。 解釈と考察は当サイトが独自に執筆しています。

「反省」が消えたり戻ったりした32年

「反省」という言葉が式辞をめぐる争点になったのは、今年が初めてではありません。日本経済新聞などの報道を時系列で並べると、この32年間、政権が交代するたびに同じ攻防が繰り返されてきたことが分かります。

  • 1994年: 村山富市首相が式辞で「深い反省」「不戦の決意」に言及。翌1995年には、戦後50年の節目にあわせて閣議決定された「村山談話」でも「痛切な反省の意」「心からのお詫び」が明記された(東京新聞など)
  • 1995年〜2012年: 自民党・民主党を問わず、歴代首相が「反省」を含む表現を踏襲
  • 2013年〜2024年: 第2次安倍政権の発足を境に、安倍晋三・菅義偉・岸田文雄の3首相が12回連続で「反省」を一度も使わず。2015年の戦後70年には、安倍首相が新たに「戦争の惨禍を繰り返さない」という表現を追加(日本経済新聞)
  • 2025年: 戦後80年の節目に石破茂首相が「反省と教訓」「不戦への誓い」を13年ぶりに復活(東京新聞、時事通信)
  • 2026年: 高市早苗首相が就任後初の式辞で「反省」を再び外し、「繰り返させない」という表現に変更(毎日新聞、朝日新聞)

たった一語の増減に、日本の首相たちは32年間、本気で頭を悩ませてきた。

興味深いのは、この攻防が首相個人の思想だけで説明しきれない点です。民主党政権(2009〜2012年)は「反省」を引き継ぎましたが、政権交代後の自民党政権(2012年末〜)は3代続けて使いませんでした。そして2025年、同じ自民党の石破首相が復活させ、翌年の高市首相がまた外した。政党の路線というより、その年の首相が誰で、どの支持層を意識しているかによって、毎年のように振れてきたということです。

なぜ「たった一語」がこれほど重視されるのか

ここが、この記事でいちばん書きたい部分です。多くの報道は「今年は反省が使われなかった」という事実を伝えて終わります。しかし本当に考えるべきは、なぜ首相の一存で変えられる、たった数文字の表現が、これほど政治的な重みを持ってしまうのかという構造の側です。

理由の一つ目は、この式辞には、法的な拘束力を持つ決まった文言が存在しないことです。閣議決定を経る「談話」とは違い、追悼式の式辞は首相が毎年自分の言葉で書き下ろします。つまり制度上、何を書いても自由です。自由であるからこそ、その年ごとの首相の立ち位置を映す「唯一の手がかり」になってしまいます。

理由の二つ目は、この式辞が、相反する複数の相手に同時に向けて話さなければならない文書だという点です。国内の保守層に配慮すれば「反省」は重すぎる言葉に映り、近隣諸国や国際社会を意識すれば「反省」を欠くことは無責任と映ります。一つの短いスピーチで、両方に納得してもらうことはほぼ不可能です。そこで使われるのが、あえて主語や立場をぼかす言い回しです。

「繰り返させない」という使役形は、まさにその典型です。「(日本が)繰り返さない」であれば主語は日本になりえますが、「繰り返させない」は「誰かに、繰り返させない」という構造を取り、誰が繰り返す主体だったのかを言わずに済ませられます。日本近現代史が専門の明治大学・山田朗教授は毎日新聞の取材に対し、この使役表現には「日本が過去の戦争を主体的に行ったのではなく、巻き込まれた被害者なのだという歴史認識が表れている」と指摘しています。

この見立てに対しては、当然「読み込みすぎではないか」という受け止め方もあります。しかし少なくとも確かなのは、言葉を精読する習慣そのものが、村山首相以来30年以上かけて定着してしまったということです。一度「反省」という言葉に重みを持たせた先例ができた以上、その言葉を使うか使わないかは、以後どの首相にとっても意図の有無にかかわらず「メッセージ」として読まれてしまう装置になりました。だからこそ、毎年8月15日が近づくたびに、メディアと有識者は式辞の一言一句を突き合わせます。争点は再生産され続けるのです。

この構図をいちばんはっきり示しているのは、実は同じ式典で読み上げられる、もう一つの言葉です。首相の式辞に先立ち、天皇陛下も追悼式でお言葉を述べられます。日本経済新聞や時事通信の報道によれば、天皇陛下は2026年も「深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い」と述べられました。「深い反省」という表現は、内閣が変わっても、式辞の言い回しが年によって振れても、お言葉の側では毎年ほぼ同じ形で使われ続けています

これは、あいまいな言い回しが日本語として避けられない制約ではないことを示しています。同じ式典の中で、片方は毎年一貫し、もう片方は毎年揺れる。その差を生んでいるのは言葉の限界ではなく、式辞を書く側が、その年ごとに誰を意識するかという判断です。揺れているのは言語ではなく、政治の側だということです。

式辞の「反省」の有無、あなたは重要だと思いますか?

「言葉遊びに過ぎない」という反論への回答

ここまでの話に対しては、もっともな反論があります。自分で書いておきます。

「結局は言葉の綾ではないか。式辞の一文が変わったところで、実際の外交・安全保障政策が動くわけではない。メディアと学者が単語を数えて騒いでいるだけで、多くの国民の生活には関係がない」。この指摘は、半分は正しいと思います。式辞の文言が変わった翌日から、条約や法律が書き換わるわけではありません。

それでも、私たちはこの一語に意味があると考えます。理由は、式辞の言葉が、実際の政策そのものではなく、その政策を支える「世論の空気」に働きかける装置だからです。国内向けには「これ以上謝罪を重ねる必要はない」という安心材料に、国外向けには「歴史修正の兆候」という警戒材料に、同じ一文がそれぞれ違う受け止められ方をします。政策を直接動かさないからこそ、誰も反対しにくい形で、両方の陣営に信号を送れてしまうのです。

もう一つ、見過ごされがちな点があります。この式辞を32年分並べて初めて見えてくるのは、「反省」を入れるか外すかが、実は政党の一貫した方針ではなく、その時々の首相個人の判断で振れてきたという事実です。次の首相がまた変える可能性は、十分にあります。言葉が軽いから毎年動くのではなく、動かせる余地が制度上ずっと残されているからこそ、毎年動いてしまう。これが、この論争が終わらない本当の理由だと考えます。

よくある質問

戦没者追悼式の式辞とは何ですか?

毎年8月15日に日本武道館で行われる全国戦没者追悼式で、内閣総理大臣が読み上げるあいさつです。天皇皇后両陛下の臨席のもと全国の戦没者に哀悼の意をささげる式典で、首相の式辞は毎年、歴史認識を示す言葉として注目されます。

「反省」という言葉はいつから式辞に使われなくなったのですか?

1994年の村山富市首相以降、歴代首相が「反省」に触れてきましたが、2013年の安倍晋三首相以降、菅義偉、岸田文雄両首相まで13年間、一度も使われませんでした。2025年に石破茂首相が戦後80年の節目で復活させましたが、2026年の高市早苗首相は再び使いませんでした。

「繰り返さない」と「繰り返させない」で何が変わるのですか?

「繰り返さない」は日本自身が主語になりうる表現ですが、「繰り返させない」という使役形は、誰かに繰り返させないという構造で主語が曖昧になります。明治大学の山田朗教授は、この表現には日本が戦争を行った主体ではなく巻き込まれた側だとする歴史認識が表れていると指摘しています。

まとめ

「反省」という一語をめぐる攻防は、今年の高市首相が始めたものでも、来年終わるものでもありません。式辞に決まった文言がなく、しかも国内と国外という相反する読者を同時に相手にしなければならない以上、この綱引きは制度そのものが生み出し続ける構造です。

来年もまた、8月15日が近づくころに同じ議論が起きるはずです。そのときに思い出してほしいのは、誰が正しいかではなく、なぜこの一語がこれほど毎年重く扱われるのかという、言葉の使われ方そのものです。今日と同じ日に、高市首相の靖国参拝見送りが対照的な形で報じられたのも(関連記事)、根っこは同じ「立場をどう見せるか」という政治の技術です。

関連記事:自民党幹部そろって靖国参拝、高市首相は見送り / 内閣支持率はなぜ違う?毎日41%とFNN62%の差

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