北方領土がロシア領と同じ色の世界地図、164カ国賛成の裏で起きたこと
9月4日、国連総会でほとんど注目されずに採択された決議がある。中身は「地図の投影方式を変えましょう」という、一見地味な話だった。その5日後、この決議が思わぬ形で外交問題に化けた。北方領土が、ロシア領とまったく同じ色で塗られていたのだ。地図の色という些細なことが、なぜここまでの火種になったのか。
何が起きたのか、9月4日から9日までの経緯
2026年9月4日、国連総会は193カ国の投票により、164カ国の賛成で一つの決議を採択した。長年広く使われてきた「メルカトル図法」に代わり、各大陸の面積をより正確に表す「イコールアース図法」の地図の使用を促すという内容だ。メルカトル図法は航海に便利な反面、高緯度の陸地が実際より大きく、赤道付近の陸地が実際より小さく見えるという歪みを持つ。日本もこの決議に賛成した。
メルカトル図法の歪みは、地理の授業で一度は目にしたことがあるはずだ。グリーンランドが実際の面積のおよそ十数倍に見え、アフリカ大陸が実際よりずっと小さく描かれる、あの世界地図である。イコールアース図法はこの歪みを解消し、各国・各大陸の面積比をより正確に表現できるとされる。面積の見え方という、政治とは無縁に見える技術的な理由から、国連総会でも164カ国という多数の支持を集めた。
ここまでは、地図の作り方をめぐる技術的な話に過ぎなかった。潮目が変わったのは9月9日、産経新聞が報じた独自記事だった。イコールアース図法の共同提唱者であるトム・パターソン氏が自身のサイト「イコールアース・コム」で無料公開している地図で、北方領土がロシア領と同じ薄緑色に塗られ、島名がロシア語で表記され、「ロシアが実効支配し、日本が領有権を主張」との注釈が付いていることが分かったのだ。同じ地図は「地図を直せ」という運動の公式サイトでも「正しい地図」として紹介され、印刷版はアマゾンでも販売されていた。
📌 出典: 産経新聞、 FNNプライムオンライン、 Yahoo!ニュース(国連決議の採択経緯)。 国連決議そのものの詳しい背景は「イコールアース図法とは、米国だけ反対の訳」でも整理している。解釈と考察は当サイトが独自に執筆しています。
木原官房長官は、この地図を掲載するサイトの運営者に対し、在外公館を通じて表記の修正を申し入れたことを明らかにした。北方領土をめぐっては、今年8月にプーチン大統領が16年ぶりに訪問し、日本側が強く抗議する場面もあったばかりだ(関連記事)。日本政府にとって、地図の色一つも見過ごせない状況が続いている。
地図製作者はなぜ北方領土をロシア色にしたのか
ここで多くの人が抱く疑問は「なぜわざわざロシア寄りの表現をしたのか」だろう。しかし、パターソン氏の説明を見る限り、悪意や政治的な意図があったわけではなさそうだ。同氏は取材に対し、「製作者として望ましくないと思う状況でも、地図に反映しなければならないことがある」と述べている。
地図製作の世界には、古くからある一つの区別がある。「どの国が法的な主権を主張しているか」と「実際にどの国がその土地を統治しているか」を分けて表現するという考え方だ。北方領土は、日本が法的な領有権を主張している一方、現実には1945年からロシア(旧ソ連)が統治を続けている。パターソン氏はこのうち後者、つまり実効支配の状態を基準に色を選んだと見られる。
地図は「正しい事実」を映しているのではない。何を基準に色を塗るか、その一点を製作者があらかじめ決めている。
この基準そのものは、国際的な地図作りの現場で珍しいものではない。係争地を抱える国境は、国際的な地図では異論のない国境を示す実線ではなく、決着していない境界を示す破線で描かれることが多く、「誰の主権が確定しているか」ではなく「現状どうなっているか」を優先する表現が広く採用されてきた。北方領土についても、実効支配している側の色を塗ったうえで、注釈で「日本が領有権を主張」と補足するというのは、この慣習に沿った処理だったとも言える。
問題は、この基準が持つ政治性が、多くの読者には見えない形で地図の中に埋め込まれていることにある。色分けだけを見た読者は、そこに「実効支配を優先する」という一つの判断が働いていることに気づかない。地図は文章と違って、判断の根拠を語らずに結論だけを差し出してくる。
同じ地図なのに言語で色を変える、本当の問題はここにある
今回の件で見落とされがちだが、実はいちばん興味深いのはここから先だ。パターソン氏は今後、日本語版の地図では北方領土を日本列島と同じ色に変更し、英語版では現在の色を維持する方針を示している。つまり、同じデータに基づく同じ地図なのに、読者が日本語を読むか英語を読むかによって、北方領土の色そのものが変わることになる。
これは決して珍しい発想ではない。よく知られた例が、Googleマップにおけるカシミール地方の表示だ。インドとパキスタンが領有を争うこの地域について、インド国内向けのGoogleマップではインド領として塗られる一方、他の国から見ると領有権問題の存在を示す破線で表示される。Google自身は、地域ごとのローカル版では現地の法律に従って境界線の表示を変えていると説明してきた。
つまり、地図はしばしば「読者の国や言語に合わせて、政治的な表現を切り替える商品」として作られている。北方領土の一件も、その延長線上にある。「客観的な地図」という言葉の裏で、実際には「誰に見せるか」がすでに決められているのだ。パターソン氏個人を責める話ではない。むしろ、地図というメディアがもともとそういう性質を持っていることが、今回たまたま日本に関わる形で可視化されたと見るべきだろう。
- 同じ地図データでも、言語版によって色を変える対応が予告されている
- Googleマップも、国・地域ごとに国境線の表示を変える仕様を公式に認めている
- 「地図を直せ」運動のサイトでは、色分けされたままの地図が「正しい地図」として紹介されていた
「政治的意図はない」という反論への応答
ここまでの主張に対しては、当然強い反論がある。自分で書いておく。
「それは仕方のないことではないか。実効支配という客観的な事実を反映しているだけで、そこに政治的な意図はない。読者の言語に合わせて表現を変えるのも、単なる配慮であって二枚舌ではない」。この指摘は的を射ている。パターソン氏の対応は、少なくとも露骨な悪意によるものではなく、実務上の落としどころとしては理解できる部類のものだ。
それでも、私たちは次の点を指摘しておきたい。問題は色の選び方そのものではなく、その選び方が「中立で客観的な事実」であるかのように流通してしまうことにある。「地図を直せ」運動のサイトが、色分けされたこの地図を「正しい地図」と呼んだように、地図は往々にして、内部に政治的な判断を含んだまま「事実そのもの」の顔をして広まっていく。しかも今回は、面積の正確さを議論する国連決議という、本来は領土問題と関係のない技術的な文脈に乗って世界中に配布されようとしていた。決議に賛成した164カ国の多くは、自国が投票したものにこうした色分けが含まれているとは、おそらく想像していなかっただろう。
地図製作者に求められるのは「政治的な判断を一切しないこと」ではない。それは実質的に不可能だ。求められるのは、その判断がどこかに書かれていて、読者が「これは一つの基準による表現だ」と気づける状態にしておくことだと考える。今回、パターソン氏が取材に対して基準を説明したこと自体は、その意味で誠実な対応だったと言える。問題は、説明を求められるまで、その基準が地図の外側に一切示されていなかった点にある。地図の隅に小さな凡例を一行加えるだけでも、「これは実効支配を基準にした色分けである」ということは伝わる。技術的には難しい話ではない。
世界地図の係争地の色分けは、何を基準にすべきだと思いますか?
よくある質問
北方領土がロシア領と同じ色で表示された地図とは何ですか?
国連総会が2026年9月4日、メルカトル図法に代わって使用を促す決議を164カ国の賛成で採択した「イコールアース図法」の世界地図です。この地図を無料公開しているサイトで、北方領土がロシア領と同じ薄緑色に塗られ、島名がロシア語で表記され、「ロシアが実効支配し、日本が領有権を主張」との注釈が付いていたことが産経新聞の取材で明らかになりました。
地図製作者はなぜ北方領土をロシア色にしたのですか?
地図製作者のトム・パターソン氏は、法的な領有権の主張ではなく、実際にどの国が統治しているか(実効支配)を基準に色分けしたと説明しています。同氏は「製作者として望ましくないと思う状況でも、地図に反映しなければならないことがある」と述べた一方、日本語版では北方領土を日本列島と同じ色に変更し、英語版では現在の色を維持する方針を示しています。
日本政府はどう対応しましたか?
木原官房長官は、地図を掲載するサイトの運営者に対し、在外公館を通じて表記の修正を申し入れたことを明らかにしました。一方、外務省は国連総会での決議自体は図法(地図の投影方式)に関するものだとした上で、必要に応じて対応する考えを示しています。
まとめ
北方領土がロシア色の地図になった直接の原因は、悪意ではなく「実効支配を基準に色を塗る」という、地図作りの世界ではよくある選択だった。だが、その基準が読者から見えない形で埋め込まれ、しかも読む言語によって色そのものが変わるとなれば、話は別だ。
地図は中立でも客観でもない。誰に何を見せるかを、製作者があらかじめ決めた表現物だ。次に世界地図を開いたとき、係争地の色を一つ見つけてみてほしい。その色は、誰かがすでに下した判断の跡である。
関連記事:イコールアース図法とは、米国だけ反対の訳 / 北方領土にプーチン氏16年ぶり訪問→元島民に動揺
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