学校版カスハラ指針はなぜ「パートナー」と呼ぶのか、その裏にある事情
「学校にカスハラ?」と聞いて、違和感を持った人は少なくないはずです。カスハラはもともと、客が店員を怒鳴りつけるような、商売の現場で生まれた言葉でした。学校は商売ではありません。それでもいま、文部科学省はその「カスハラ」という言葉を借りて、保護者への対応指針を全国の学校に示そうとしています。なぜ教育の言葉ではなく、消費の言葉を借りる必要があったのでしょうか。
いま学校で何が起きているのか
2025年4月、東京都教育委員会は都内の公立学校の教職員を対象に、保護者や地域住民との関係についてアンケートを実施しました。回答した教職員のうち23%が、この5年間で暴言や長時間拘束、過剰な要求といった対応に苦しんだ経験があると答え、そのうち88%が「保護者から」だったと答えています。もっとも多かったのは電話が長時間に及ぶケース、次いで暴言、過剰な要求と続きました。
こうした状況を受け、都教委は保護者対応の指針を先行して整備しました。そして2026年8月26日、朝日新聞や時事通信の報道により、文部科学省がこの都の枠組みを踏まえた全国向けの「学校版カスハラ指針」を近く公表する見通しであることが分かりました。指針には、クラス替えや担任交代・退職を求める要求、SNSへの悪評投稿をちらつかせる脅迫、同じ質問を執拗に繰り返し文書での回答を強要する行為などが、対応すべき言動の具体例として盛り込まれる見通しです。
この指針が動き出す時期は、偶然ではありません。2026年10月1日、改正労働施策総合推進法によってカスタマーハラスメント対策が民間企業に義務化されます。企業向けの防止法が整うタイミングに合わせて、教育現場向けの指針も足並みをそろえた形です。
都教委の調査で最も多かったのが「電話が長時間に及ぶケース」だった点は見過ごせません。怒鳴り込みのような分かりやすい事例よりも、一本の電話が1時間、2時間と続き、担当の教員がその間、他の業務にも他の子どもにも手を回せなくなるという形の負担のほうが多く報告されているのです。これは、暴言そのものより、教職員という限られた人的資源が特定の対応に長時間拘束されることの方が、現場では深刻だと受け止められていることを示しています。
📌 出典: 日本経済新聞、 Yahoo!ニュース(朝日新聞配信)、 文部科学省、 厚生労働省。 解釈と考察は当サイトが独自に執筆しています。
保護者を「カスタマー」にしなかった理由
ここで一つ、見落とされがちな事実があります。10月に義務化されるカスタマーハラスメント対策は、公立学校の教職員を直接の対象にしていません。この法律は民間の事業主に安全配慮義務を課すもので、地方公務員である公立校の教職員は、そもそも枠組みの外にいます。だからこそ文部科学省は、企業向けの法律に頼らず、教育現場だけの指針を自前で用意しなければなりませんでした。
ところが、その指針の中身を見ると奇妙なねじれがあります。仕組みは企業のカスハラ対策から借りているのに、報道によれば指針は保護者を「カスタマー」とは呼びません。子どもの成長を共に支える「パートナー」と位置づけたうえで、「社会通念上許容される範囲」を超える言動にだけ、毅然とした対応を求めるという書き方になっています。
学校は「カスタマー」を作らないまま、「カスハラ」という枠組みだけを取り入れた。
これは単なる言葉選びの問題ではありません。もし保護者を正面から「カスタマー」と呼んでしまえば、教育を対価に基づくサービス取引として認めることになります。学校がサービス業なら、保護者の要求は原則として通すべきもの、という発想が後押しされてしまいます。文部科学省はその前提だけは受け入れず、消費の言葉から「対応の枠組み」だけを抜き出して、呼び方は教育の言葉に戻した。ここに、指針を作った側の迷いと工夫の両方が表れています。
企業向けのカスハラ指針は、厚生労働省が示す「方針の明確化」「相談体制の整備」「発生時の事後対応」「抑止のための取り組み」という4本柱で組み立てられています。学校版指針が踏襲しているのも、基本的にはこの骨格です。ただし企業の指針では、これらの柱を守る先に「顧客との適切な関係の維持」という商取引の発想が置かれているのに対し、学校版では同じ柱の先に「子どもの利益」を置かなければ筋が通りません。骨組みは同じでも、何のために守るのかという土台だけは、あえて置き換えられているのです。
呼び方が変えるのは、対応の仕方だけではない
この「パートナー」という呼び方は、飾りではありません。実際に現場でどう機能するかを考えると、その狙いがより具体的に見えてきます。
- 「カスタマー」と呼べば、教職員は無意識に「サービスする側」の立場に引き寄せられ、過剰な要求にも「相手はお客様だから」と応じやすくなる
- 「パートナー」と呼び続ければ、対等な協力関係を前提にできるため、逸脱した言動だけを問題として切り出しやすくなる
- 呼称は、対応マニュアルを実際に使う教職員の心理的なハードルを左右する。マニュアルの文言だけでなく、現場の自己認識に働きかける設計だといえる
同じ緊張関係は、学校をめぐる別の場面でも起きています。部活動の地域移行が思うように進まない背景にも、「誰が保護者の要望にどこまで応えるべきか」という線引きの曖昧さが横たわっています。教育の現場に「顧客対応」的な発想がどこまで入り込むかという問いは、カスハラ指針一つにとどまらない、公教育全体の輪郭をめぐる問題だと考えられます。
視野を少し広げると、同じ構図は病院や役所の窓口でも見られます。医療の現場では「モンスターペイシェント」という言葉が先に定着し、対応マニュアルの整備が進みました。共通しているのは、本来は対価を払う消費とは性質が異なるはずの公共サービスに、いつのまにか「客だから何でも通る」という感覚が入り込んでいたという経緯です。学校の指針づくりは、この流れの中でも、呼称の段階で踏みとどまろうとした珍しい事例だといえます。
「呼び方はどうでもいい」という反論に
ここまでの見方に対しては、当然、強い反論があります。自分で書いておきます。
「呼び方のような表面的な話より、記録を取る、複数人で対応する、スクールロイヤーに相談するといった具体的な対処法のほうがよほど重要だ。『パートナー』という言葉遊びは本質ではない」。この指摘は的を射ています。実際、指針の対処例として挙がっているのも、1人で対応しない、相手に断って録音する、弁護士に相談するといった、地に足の着いた手順です。呼び方が変わっても、暴言を吐く保護者が急にいなくなるわけではありません。
それでも、私たちはこう考えます。呼称は、その具体的な手順を教職員が実際に使えるかどうかを左右する土台だからです。「相手はカスタマーだ」という自己認識のまま録音や相談の手順だけを渡されても、多くの教職員は「お客様相手にそこまでするのは角が立つ」とためらいます。逆に「対等なパートナーとの関係を守るための手続きだ」と位置づけられれば、同じ手順でも使うことへの抵抗感は下がります。手順そのものより先に、手順を使ってよいという心理的な許可を与えること。それが、呼称に込められた実務的な役割だと考えます。
もう一つ付け加えるなら、呼び方は保護者の側の受け止め方にも影響します。「カスタマー」と名指しされれば、その言葉を受け取った側は「では自分は消費者として扱われている」と学習し、要求を強める理由にしてしまう可能性があります。「パートナー」と位置づけられれば、逸脱した言動を指摘されたときに「協力関係から外れている」という文脈で受け止めやすくなります。呼称は教職員だけでなく、保護者の自己認識にも同時に作用する二重の装置だと見ることができます。
学校の保護者対応、「お客様扱い」に近い発想が強いと感じますか?
よくある質問
学校版カスハラ指針とは何ですか?
文部科学省が策定を進めている、保護者や地域住民から教職員への理不尽な要求・言動への対応方針をまとめた指針です。10月に施行されるカスタマーハラスメント防止の法改正が企業を対象とする一方で学校は対象外のため、教育現場向けに独自にまとめられます。判断基準や対処法の具体例が盛り込まれる見通しです。
10月の法改正はなぜ学校に直接適用されないのですか?
10月に義務化されるカスタマーハラスメント対策は、労働施策総合推進法の改正によるもので、民間の事業主を対象としています。公立学校の教職員は地方公務員であり、この法律の直接の対象に含まれないため、学校は独自の指針を別途整える必要があります。
指針が保護者を「パートナー」と呼ぶのはなぜですか?
指針は保護者を「カスタマー」と位置づけず、子どもの成長を共に支える「パートナー」と表現しています。教育を対価に基づくサービス取引として扱わない姿勢を示しつつ、社会通念上許容される範囲を超える言動には毅然と対応するという線引きを両立させるための呼称だと考えられます。
まとめ
学校版カスハラ指針は、保護者への対応手順を整えるだけの実務文書ではありません。教育を「サービス」と認めるのか認めないのか、その一線をどこに引くかという、公教育の自己規定そのものに関わる選択が、呼称一つに凝縮されています。
10月の法改正が学校を対象外にしたことは、文部科学省に「自分たちで線を引く」という選択を迫りました。そこで選ばれたのが、企業の枠組みを借りながらも「客」にはしないという、やや窮屈な折衷案でした。窮屈に見えるこの折衷案は、実は理にかなっています。手順だけを渡されても、使ってよいという納得がなければ現場は動きません。「パートナー」という一語は、その納得を作るための、地味だが計算された装置なのです。
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