同じ仕事なのに年収は4分の1。日本IBM204万円の"和解"が突きつけた問い

再雇用の年収はなぜ4分の1に、日本IBM204万円の理由
✒ コラム / 図版:タネアカシ編集部

年収1000万円以上あった社員が、定年後の再雇用で年収204万円になる。新卒の初任給よりも低い金額です。この落差そのものより気になるのは、6年も争われたこの一件が、最終的に「判決」ではなく「和解」で幕を閉じたという事実です。白黒つけられそうな話が、なぜいつも玉虫色のまま終わるのか。そこに、この国の再雇用制度が抱える構造が透けて見えます。

年収1000万円が204万円になった6年間

日本IBMは2013年4月、改正高年齢者雇用安定法への対応として、定年退職後も65歳まで働き続けたい社員を再雇用する「シニア契約社員」制度を設けました。ここまでは、法改正に合わせて多くの企業が整えてきた仕組みと同じです。問題は、その賃金設計にありました。

弁護士JPニュースの報じたところによると、この制度での賃金は担当する業務の内容にかかわらず一律で月17万円。1981年・82年に入社し、正社員として35〜37年勤続したのちに定年を迎えた男性2人は、定年前に年収1000万円以上を得ていましたが、再雇用後は年収204万円まで落ち込みました。新卒社員の初任給を下回る水準です。

争いの核心は単純でした。会社側は「定年後の業務はバンド3相当の補助的な内容で、定年前とは異なる」と主張し、原告側は「実際の仕事内容は定年前と変わっていない」と反論しました。業務が同じなのか違うのか。ここが食い違ったまま、話し合いは進みませんでした。

労働組合は訴訟と並行し、2020年11月、会社側が団体交渉で必要な情報開示に応じなかったことが不誠実団交にあたるとして、東京都労働委員会に救済を申し立てました。そこから実に6年。2026年8月20日、中央労働委員会でようやく和解が成立したと報じられています。

📌 出典: 弁護士JPニュース東京都(シニア契約社員制度事件 命令書交付)日本経済新聞(長澤運輸事件・最高裁初判断)。 解釈と考察は当サイトが独自に執筆しています。

先にお断りします。 和解の詳細な金額や条件は非公開の部分があり、本稿はそこに踏み込みません。ここで扱うのは、「なぜこの手の争いは判決まで行かず和解で終わるのか」という、この一件より前からずっとある構造の問いです。

「同じ仕事なのに賃金が違う」の合法ラインはどこか

再雇用で給与が下がること自体は、実は違法ではありません。独立行政法人労働政策研究・研修機構の調査では、60歳直前の給与を100とした場合、61歳時点の給与水準は平均で78.7まで下がるとされています。2割前後の下落は、いわば「相場」です。

この相場観の根拠になっているのが、2018年の最高裁判決、いわゆる長澤運輸事件です。定年前と比べて年収が2割程度減る再雇用制度について、最高裁は皆勤手当の不支給部分を除き、不合理とまでは言えないと判断しました。以来、「定年前の76〜80%程度」が、賃金設計における一つの目安として扱われるようになりました。

ところが2023年、名古屋自動車学校事件の最高裁判決は、この相場観に別の角度から釘を刺します。業務内容がほとんど変わらないのに基本給や賞与を大きく引き下げることは、不合理な待遇差になり得ると判断したのです。つまり最高裁は「何%まで減らしてよいか」という一律の数字ではなく、減らした賃金の性質・目的・業務との対応関係を個別に見よ、という立場を取っています。

  • 長澤運輸事件(2018年):定年前比おおむね76〜80%の賃金水準は不合理とまでは言えないと判断
  • 名古屋自動車学校事件(2023年):業務内容が同じなら、基本給の大幅な引き下げは不合理になり得ると判断
  • いずれも「賃金の性質・目的」と「業務との対応関係」を個別に検討する立場

2割の減額は「相場」として許容されるが、8割の減額は、業務が同じである限り、この国の司法がすでに引いた線の外側にある。

日本IBMのケースに当てはめると、年収1000万円から204万円への下落は、実に約8割の減額です。長澤運輸事件が容認した2割前後の下落幅を、はるかに超えています。だからこそ会社側は「業務が変わった」という一点にこだわり続けました。業務が同じだと認めてしまえば、名古屋自動車学校事件の基準に照らして、この賃金設計そのものが立ち行かなくなるからです。

なぜ「判決」ではなく「和解」で終わるのか

ここまでの整理だけを読むと、疑問が残るはずです。業務が同じかどうかを裁判所がはっきり判断すれば済む話ではないか。それなのに、なぜ6年もかけたあげく、白黒つける判決ではなく、当事者間の合意である和解で終わったのか。ここに、他のメディアがあまり踏み込まない、この一件のいちばん面白い部分があります。

理由は、会社側と労働者側、双方の事情が、奇妙な形で「和解」という一点に収束するからだと考えます。

会社側にとって、判決は"賭け"です。もし裁判所が「業務は定年前と同じであり、8割の減額は不合理」と明確に判示すれば、それは一つの企業の一件では終わりません。同じような再雇用制度を運用する他の企業や、同じ会社の他の再雇用社員にも波及しうる判例になります。逆に会社側が勝てば済む話に見えますが、そもそも「業務内容が変わらない一律の大幅減額」という制度設計自体、名古屋自動車学校事件以降のリスクを考えれば、勝ち切れる保証はありません。負ける可能性のある賭けに出るくらいなら、金銭で個別に決着させて、制度の是非そのものへの司法判断を確定させない方が合理的だという計算が働きます。

一方、労働者側にとっても、判決を待つことには重いコストがあります。原告となった2人は、すでに定年を迎えた60代です。6年という歳月は、20代の6年とは意味が違います。地裁、高裁、最高裁と争いが続けば、決着までにさらに何年もかかりかねません。争っている間、生活は204万円のままか、それに近い水準で続くのです。「勝てるかもしれない将来の確定判決」と「今受け取れる和解金」を天秤にかければ、後者を選ぶ合理性は十分にあります。

つまりこの構図は、どちらかが妥協した美談ではありません。会社は「制度への確定判断」を避けたい。労働者は「時間というコスト」をこれ以上払いたくない。利害の方向はまるで違うのに、行き着く先だけが「和解」という同じ地点になる。この一致が、日本の再雇用をめぐる紛争が判決までたどり着きにくい構造的な理由だと考えます。

補足: これは今回のケースの動機を断定するものではなく、長澤運輸事件・名古屋自動車学校事件以降に積み上がってきた同種の紛争の一般的な力学からの考察です。当事者双方の内心は公表されておらず、本稿の推測にとどまります。

「和解も合意なら問題ない」という反論への応答

ここまでの見立てに対しては、当然、強い反論があります。自分でいちばん強いものを書いておきます。

「和解は双方が納得して合意したのだから、それでいいのではないか。判決でなければ問題だという考え方こそおかしい」。実際、和解は法律上、確定判決と同じ効力を持ちます。当事者が受け入れた以上、外野が「本当は判決にすべきだった」と言うのは筋違いだ、という批判は十分に成り立ちます。

それでも、私たちはこう考えます。この和解が「個別の紛争の解決」であって「制度そのものの是正」ではない、という一点が、次の同じ問題を防げないという意味で重いのです。

今回争った2人の待遇は、和解によって是正されたかもしれません。しかし、同じ「業務内容にかかわらず一律月17万円」という制度自体が変わったのかどうかは、この和解だけでは分かりません。制度が変わらない限り、これから定年を迎える別の社員が、同じ約8割の減額に直面する可能性は消えません。個人を救済することと、制度を是正することは、似ているようでまったく別の作業です。判決であれば、少なくとも「この種の一律減額は不合理」という判断が公の記録として残り、他の企業や他の社員が参照できる基準になります。和解には、その効果がありません。

もう一つ付け加えるなら、和解を選ばざるを得なかった労働者側の事情そのものが、この制度の不均衡を映しています。60代の原告が「時間コストが重いから和解を選ぶ」という選択を迫られること自体、再雇用という立場の弱さの表れです。和解が「双方合意の円満な解決」に見えるとしても、その合意の背後にある力関係が対等かどうかは、また別に問われるべき問題だと考えます。

あなたの職場は、定年後の再雇用で「同じ仕事・同じ給料」になっていますか?

よくある質問

再雇用で年収が下がるのはなぜですか?

定年で一度雇用契約が終了し、再雇用は新しい有期契約として結び直されるためです。役職手当や賞与の前提が変わり、独立行政法人労働政策研究・研修機構の調査でも、60歳直前を100とすると61歳時点の給与水準は平均で78.7まで下がるとされています。

日本IBMの204万円のケースはどう決着しましたか?

定年前に年収1000万円以上あった社員が、再雇用後は担当業務にかかわらず一律で月17万円、年収204万円まで下がったとして労働組合が争いました。2020年11月に東京都労働委員会へ申立てが行われ、6年に及ぶ労使紛争を経て、2026年8月20日に中央労働委員会で和解が成立しています。

再雇用の賃金減額はどこまでなら違法になりますか?

最高裁は長澤運輸事件で、定年前の76〜80%程度の賃金水準を不合理とまでは言えないと判断しました。一方、名古屋自動車学校事件では、業務内容が変わらないのに基本給を大きく下げることは不合理になり得るとしています。一律に何%までなら合法、という単純な線引きは存在しません。

まとめ

年収1000万円が204万円になる。この数字だけを見れば、多くの人は反射的に「おかしい」と感じるはずです。しかし司法の判断は、その"おかしさ"を一律の数字で裁いてはくれません。長澤運輸事件は2割前後の減額を容認し、名古屋自動車学校事件は業務が同じままの大幅減額に警鐘を鳴らす。この二つの間のどこかに、無数の再雇用制度がグレーゾーンとしてぶら下がっています。

日本IBMの6年間は、そのグレーゾーンの広さを映す一件でした。そして、白黒つけられそうに見えたこの争いが、最後まで判決に至らず和解で終わったこと自体が、会社にとっても労働者にとっても、確定判断を得るコストの方が高くつくという、この国の紛争解決の現実を教えてくれます。

もし自分の職場に定年が近づいているなら、確かめておくべきことは一つです。再雇用後の給料は、役職や年功ではなく、業務内容に対して決まっているか。それが曖昧なまま定年を迎えると、交渉の余地はほとんど残っていません。

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